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『ゴーン』マリッヂ・ブルー@タイニィアリス

 朝から胸がドキドキして止まらない。
 マリッヂの芝居『ゴーン』をいよいよ見に行く。
 
 もー良く分からないけれども期待は募るばかりでドキドキなのだった。
 そのせいか客入れの音楽がちょっと長く感じられた。待ち遠しかったのだ。多分。
 
 物語は、ある町を舞台に、失踪した恋人を探しに来た男がその町の交番を訪れることより始まる。彼女を探す中で、町の人々と交流を深めていくが・・・という話。

 今回の芝居を見て思ったこと。
 僕らは、生きていく上で色んな立場を持っている。スーツを着て会社にいる時はサラリーマンとして存在している。家に帰れば父親であったり、子供であったり、恋人の前では男、女であったり。それぞれの環境で立場が変わる。
 それでも僕らはそれらが一貫していてかつ普遍的なものであると思っている。サラリーマンであり、子供であり、男である自分がいて生活していると思っている。
 しかし、そうではないのかもしれない。それぞれの場所に偶然、自分が居合わせていただけで、あるいは別の誰でも代用が利くのかもしれない。
 ただただ流れていく日常の中でそれに気づいてないだけなのだ。
 流されているのにさえ気づいていないととんでもないことになるかもしれない。気がついたら自分の立場を見失っているかもしれない。確か自分はサラリーマンであったはずだ。あの机につき、仕事をしていた。しかし、いつの間にかその席には自分以外の誰かが座っており、そして、あろうことか自分の名前であるはすの名前でその誰かは呼ばれている。家に帰ると、そこでも自分の居場所はない。すでに何者かが自分に取って代わっている。
 では、自分は何なのだ?本当の自分は誰だ?世間から抹消されてしまった自分は・・・自分の居場所は?
 確固たるものなど無い。何も無い。ボーっとしていて良いのか?安穏として座っているその場所はいつ誰に取って代わられるか分からない。自分は誰だ?はっきりと言えるか?
 そして、愛をもって接している人に対していつも愛を忘れてはいけない。油断するとその幸せな場所は、次の瞬間消えているかもしれない。彼女は僕の目の前から消えた。違うかもしれない。主観的に見ればそうであっても、冷静に考えるとまず、自分が彼女を見失い、自分の立場を忘れた結果なのかもしれない。逃げ出したのは、なにより自分自身だったのかもしれない。
 とりとめも無くそんなことを見ていて思った。
 
 前半ややスローペース気味であったが、中盤から後半にかけての展開は良かった。
 今回役者は自然体に近い演技を心がけているように見えた。
 あと一歩、もう一歩で、非日常の日常を描ききることが出来るんじゃないかな。マリッヂ・ブルーは。

 個人的には、最後のシーンで、幸せなころの恋人同士のある部屋でのやり取りが非常に心に残っている。
 あー・・・や~ん。良いなぁ・・・って感じなのよ、これが。忘れてね?最近。こーゆーの。
 なーんか切ないわ。あのシーン。涙出るかと思った。
 散るのが分かっていながら見ている満開の桜を連想した。
 はかないからこそ恋は美しいし楽しいのだね・・・


 そして、初めて劇場呑みを経験した。色んな人と色んな話をした。
 でも、みんなと話したい事はそんなんじゃないんだ。
 役者の人たちとも、作演出の森さんとももっと喋りたかった。
 ちょっと話しかけになったままの人もいたし、そこで終わりじゃなくてもっと話したかったのに、とも思った。
 深いコミュニケーションのとり方、忘れてる。
by skullscafe | 2005-12-18 02:30 | 芝居


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